「法隆寺一切経と聖徳太子信仰」

やや旧聞になります。先月28日(水)に大谷大学博物館で開催されていた「法隆寺一切経聖徳太子信仰」を観て参りました。


一切経」というのは、仏教経典を集成したものの総称と考えればいいと思います。または、「大蔵経」とも言います。我が国では、大正大蔵経が著名で、経典を探すときにまず当たる資料です。
収録されているものは、いわゆる経典だけではありません。史伝部といわれる、中国に仏教が伝播して以降の僧侶の伝記や旅行記といったもの含まれています。


今回の展示では、玄奘大唐西域記』巻2が出品されるので、見に行きました。実物を見たからと言って、何が変わるわけではないのですが、印刷されたものではなく平安時代の『大唐西域記』写本を見られるなんてのは、そうあるものでもないので。

玄奘三蔵(げんじょう さんぞう, 仁寿2年(602年)−麟徳元年2月5日(664年3月7日))は、唐代の中国の訳経僧、三蔵法師


西域へ
唯識の『瑜伽師地論』等の仏典の研究には原典による他ないとし、また、同時に仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)に国禁を犯して出国した。


河西回廊を経て高昌に至り、天山北路を通って中央アジアから天竺(現在のインド)に至る。ナーランダ寺で戒賢より唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て帰国の途につき、貞観19年(645年)1月、657部という膨大な経典を長安に持ち帰った。旅の記録は『大唐西域記』として残されている。帰国した彼は、持ち帰った膨大な梵経の翻訳に専念した。


貞観19年(642年)2月6日に弘福寺(のちに大慈恩寺、玉華宮)の翻経院で太宗の勅命によって始まった玄奘の翻訳は、『大般若経』600巻等、76部1,347巻に及んだ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

また、彼は、孫悟空でお馴染みの『西遊記』の三蔵法師のモデルとされております。

大唐西域記』は生半可な知識では歯が立たない漢文資料で、仏教学・東洋史学・言語学・考古学といった、複数の専門分野に渡る素養がなければなかなか読みこなせない代物です。
ここ100年の間に日本・中国・欧州で何冊も研究書が出版されております。


この書は、7世紀当時の中央アジアの地理・国情・風土等を伝える貴重な資料で、'80年代にNHKで放映されていた「シルクロード」も『大唐西域記』の記述に従ってルートをとっておりました。


そんな平安期の写本を現物で見られたことは貴重な体験でした。
また、法隆寺一切経の写経が行われた平安時代末期は、仏教では「末法」時代にはいった一般に信じられていた時期に当たります。(1051年というのが有力な説)


次に、聖徳太子についてです。
聖徳太子」という名称は 諡名−いわゆる戒名−。ただ、死後100年以上経過してからの資料になってから「聖徳太子」という名称が登場するので、歴史学的には意見が分かれるかも知れません。
諱名−生前の名前−は「厩戸王厩戸皇子」といったようです。
聖徳太子信仰は、太子死後数百年を経てから盛んになったようで、この辺りは日本の「末法思想」流布との関連で考察したら面白いかなあ(既に、そのような研究がされてるかも知れませんが……)、と思った次第です。