『下町の太陽』'63 山田洋次/監督 山田洋次,不破三雄&熊谷勲/脚本

下町の太陽 [DVD]

beatleさんがブログで紹介されていた作品です。
この当時、日活・大映で作られていたヒット曲の映画化の松竹版。
監督が山田洋次のせいか、青春歌謡ドラマという印象は感じない。映画の中途でいきなり歌い出すようなことがなかったので。(それはそれで笑えるので、嫌いではない。でも、鑑賞法としては邪道か?)


主演は、倍賞千恵子。他には、勝呂誉,早川保,石川進待田京介,武智豊子,藤原釜足東野英治郎菅井きん左卜全 らが出演。
山田洋次監督の初期の作品。
後年の、寅さんシリーズや『幸せの黄色いハンカチ』の原型となるようなキャラクターが並んでいる。


また、倍賞千恵子は若く溌剌としていて、

<あらすじ>
荒川の流れにそって貧しい家並が密集している東京の下町、寺島町子(倍賞千恵子)は化粧品工場の女工として働いている。母は亡くなり父、祖母、弟二人の家庭は明るく平和である。同じ工場で働く恋人の毛利道男(早川保)は丸の内本社に勤めるサラリーマンを夢みて、正社員登用試験の勉強に励んでいた。毎日の通勤電車にいつも一緒に乗り込んで町子を見つめている不良っぽい工員たちがいた。彼等は北良介(勝呂誉)たちで、町子の弟健二ともつき合いがあるという。
その健二が万引事件で警察沙汰を引きおこしたので、町子は鉄工場の良介を訪ねた。彼は健二を理解しており町子の危惧に背を向けて一心に機械と取り組んでいた。その姿に町子は思わず感動をおぼえた。
その頃、正社員登用試験の結果が発表されたが、道男は次点で不合格となり、自信満々だっただけにショックは大きかった。同僚の金子(待田京介)が要領がよくて合格したのを散々コキおるす道男の心には町子の慰めも通ぜず、二人の間には空虚な数日が流れた。
公会堂で開かれたダンスパーティの夜、良介は町子を誘って外に出ると前から好きだったことを告白したが、彼女に恋人がいることを聞かされて淋しそうに帰って行った。
数日後、颯爽と自動車を運転していた金子は老人を轢ね、これを道男が会社に連絡したため金子の正社員登用は取り消され、道男が採用されることになった。道男は早速町子と逢って結婚の約束を急いだが、町子は道男のとった態度を素直に受けいれることが出来なかった。町子は彼に言った。「あなたは結局は下町を出て行く人よ、でも私はここにいたいの、いつまでも」やがて、下町にまた太陽が昇って町子は通勤の満員電車にゆられている。その片隅に真剣なまなざしの良介がいた。
下町の太陽(1963) - goo 映画

率直な感想は、後年の作品を知っているため、「山田洋次スタイル、未だ完成せず」である。
鑑賞に堪えないという意味ではない。これはこれで完結していると思う。


ただ、作品が「硬い」。「柔軟性」に欠けている。ある意味「優等生的」な印象を受ける。
人間の描き方がどうも物足りないのだ。定型化というか鋳型にはめ込んでいるような。
日曜日にTVで『男はつらいよ』を観たばかりなので、それと対比してよけいそう感じるのかも知れないが……。
また、音楽が、ボクには暗く感じられた。


ボクは、へそ曲がりなので、いわゆる正論が苦手である。ボクの言うそれは、「しなやかさ」や「やわらかさ」が欠落し、一見反論の余地のない「正しい」意見のこと。
一歩間違えると、教条主義全体主義の波に飲み込まれてしまうことを経験的に知っている。


どうも、100%の「善人」や「正しい人」がダメなのだ。
池波正太郎

人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ。
                             「谷中・いろは茶屋」(『鬼平犯科帳』より)

という人間観に親近感を感じるのだ。(と言っても、若い頃はそうでもなかったが……<苦笑>)


制作は、'63年だから小津安二郎の亡くなった年に当たる。また、「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と言う言葉が生きていた時代でもある。
山田洋次は決してヌーヴェルヴァーグの括りでは語れないし、いわゆる小津的な作品でもない。
暗中模索の時代と言うか、独自の作風を作り上げる前夜というべき時期なのだろう。


だから、後年の山田作品に見られる、清濁併せ持った深みのある人間像をこの作品に期待してはいけないだろう。
だが、後年の「寅さん」や「その周囲の人々」の原型がここにはいるし、ラスト近くの電車中のシーンは含みのあるカットだ。
よくよく観ると凡庸な監督ではないことがわかる作品と言える。