今回の書評は、ちょっと過激編

jinkan_mizuho2006-05-12

*1147487459*[書評]『まんざら』(毎日新聞社)中野翠

何か気に入らない。何故だろう? 他人を批判しておきながら、公平さや著者の見解にオブラートがかかっているからだろうか。 
落語のコラムに、落語に対して惜しみのない愛情を感じるし、映画評も参考になる。自分の言葉で語っているからだ。だから、なおさらなのだ、このもやもや感。

本書は、2002.11-2003.11にかけてのコラムをまとめたもの。初出は『サンデー毎日』が主。他は、『東京新聞』『文藝春秋』『文學界』に掲載されたもの。

さて、本書について最も触れておきたいのは、イラク戦争に関してだ。
バグダッド陥落の報に「どうにか泥沼化は免れそうな様子だ。」(P.112)という、現在ではややお間抜けな発言は問わない。そのあとで、「素人考えでも、この先この先まだまだ惨劇が続きそう…。」(p.112)としているので。

「反ヒューマニズム的な、意地悪な気持ち」(p.113)と決して正義漢ぶってない。この点もいい。でも、でもである。

少し引用が長くなるが

私だって平和を切望するものの一人だが(そもそも私のような雑文家業は平和なればこその商売なのだ)、メディアに出て来る平和主義者のレベルがあまりにも低すぎて、腹立たしさを押さえ切れないのだ。(p.114)

「メディアに出て来る平和主義者」を「「戦争は何が何でもイヤ!」と叫ぶだけの、いわゆる絶対平和主義者」と定義している。では訊きたいが、「平和主義者のレベル」云々とする背景には、「レベル」の高い「平和主義者」を想定しているのだろう。

メディアには載らない市井の人びとの中には、そういう反戦有名人たちよりよっぽど知的な人々がいると私は確信している。(p.114)

これが、「レベル」の高い「平和主義者」の解答ならば、苦笑→冷笑→爆笑 である。
これって、なんの裏付けもないことでしょ。たんなる思いこみでしょ。何故「確信している」と断言できるのか?それこそ「レベル」が低い発言なのではないか?

そして、自身の見解として

自分が日本で平和に暮らしていること、半世紀以上にわたって日本が戦争をせずにこられた理由(政治的なもの)について考えることのほうが、私はよっぽど反戦=平和に役立つと思うけどなあ。(p.114)

正直な感想をいうと、自分は安全地帯に逃げ込んで、やいのやいの文句を言っているようにしか思えない。現在の日本の平和には、いろんな要因があると思うけど、先の大戦で、犠牲になった人々の存在を忘れてはいけない。その中には、上官の命令に従っただけで死刑になったB級C級戦犯もいる。上官は罪に問われず、部下が罪に。紛れもない戦争の一断面なのではないだろうか。そんなところに想像力が至らないなら、「平和」について語る資格なぞあるわけないでしょ。  

少なくとも「戦争はイヤだ」という感情だけで物事がどうにかなるとは思っていない。(p.114)

それはそうだ、現実はそう簡単にはいかない。ならば、その感情はみな抑えるべきものなのですか?

著者は、いわゆる常套句や決まり文句が嫌いのようだ。この点は共感する。でも、「戦争は何が何でもイヤ!」という感情は、ボクのような市井の人間には共感できる感情だ。現実はそう簡単にはいかない、と思う人もいるだろう。ボクも50年近く生きてるから、そんなこと何をいまさら、である。

ただ、乃木希典のように自分の息子を戦前に送り、戦死しても自己の責務を果たそうとする。そんな為政者・高級官僚が、どれだけいるというのか? 

だからこそ、「戦争絶対イヤ!」という感情なり意見表明は重要なんじゃないのかなあ、と思う。


著者の批判している、

朝日新聞』に掲載された、40代の「社会派」の女性マンガ家(p.113)

石坂啓のことであろう。批判するのはいいが、やり方がどうもいやらしい。新聞にコラムを掲載しているのだから、石坂も当然批判されることも覚悟して、意見を陳述しているのだろう。(そうでなかったら、かなり笑える) 

何故、名指ししないのだろう。疑問だ。個人攻撃を本意として書いたのではない、とでも言い訳するのだろうか? そうでないとは思うが、もしそうなら笑止千万である。『朝日新聞』とか『サンデー毎日』で、記名での発表ならば、賛否両論あるのが当然だ。言論の自由が保障されているからである。

このようなやり方で批判されては、石坂も反論しにくいのではなかろうか。そこが、本書の最も気に入らないところなのである。