「山の音」成瀬巳喜男・監督  川端康成・原作

山の音 [DVD]

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映像の魔術だなあ。役者の演技も見事でした。山村聰の見事な老け役。原節子の無敵の美しさ。長岡輝子の存在感のある演技−小津作品の「彼岸花」でもそうだった−。でも、「鎌倉、いいなあ。こんな所に住みたいなあ」とまず感じた。

こんな環境を大切にすることが「美しい日本」につながるんじゃないかなあ。政治家センセイにも、日本の名画をどしどし観て欲しいものだ。(無理だろうけど)

<あらすじ>

六十二という齢のせいか、尾形信吾は夜半、よく目がさめる。鎌倉の谷の奥--満月のしずかな夜など、海の音にも似た深い山の音を聴いて、彼はじぶんの死期を告げられたような寂しさをかんじた。信吾は少年のころ、妻保子のわかく死んだ姉にあこがれて、成らなかった。息子修一にむかえた嫁菊子に、かつての人の面影を見いだした彼が、やさしい舅だったのは当然である。修一は信吾が専務をつとめる会社の社員、結婚生活わずか数年というのに、もう他に女をつくり、家をたびたび開けた。社の女事務員谷崎からそれと聴いて、信吾はいっそう菊子への不憫さを加える。ある日、修一の妹房子が夫といさかって二人の子供ともども家出してきた。信吾はむかし修一を可愛がるように房子を可愛がらなかった。それが今、菊子へのなにくれとない心遣いを見て、房子はいよいよひがむ。子供たちまで暗くいじけていた。ひがみが増して房子は、またとびだし、信州の実家に帰ってしまった。修一をその迎えにやった留守に、信吾は谷崎に案内させ、修一の女絹子の家を訪ねる。谷崎の口から絹子が戦争未亡人で、同じ境遇の池田という三十女と一緒に自活していること、修一は酔うと「おれの女房は子供だ、だから親爺の気に入ってるんだ」などと放言し、女たちに狼籍をはたらくこと、などをきき、激しい憤りをおぼえるが、それもやがて寂しさみたいなものに変っていった。女の家は見ただけで素通りした。帰ってきた房子の愚痴、修一の焦燥、家事に追われながらも夫の行跡をうすうすは感づいているらしい菊子の苦しみ--尾形家には鬱陶しい、気まずい空気が充ちる。菊子は修一の子を身ごもったが、夫に女のあるかぎり生みたくない気持のままに、ひそかに医師を訪ねて流産した。大人しい彼女の必死の抗議なのである。と知った信吾は、今は思いきって絹子の家をたずねるが、絹子はすでに修一と訣れたあとだった。しかも彼女は修一の子を宿していた。めずらしく相当に酔って帰った信吾は、菊子が実家にかえったことをきく。菊子のいない尾形家は、信吾には廃虚のように感じられた。二、三日あと、会社への電話で新宿御苑に呼びだされた信吾は、修一と別れるという彼女の決心をきいた。菊子はむろんのこと信吾も涙をかんじた。房子は婚家にもどるらしい。信吾も老妻とともに信州に帰る決心をした。

                   −goo映画より−    

山の音(1954) - goo 映画
山の音(1954) - goo 映画

話の大筋は、あらすじをご覧になればわかります。設定・テーマ自体は、斬新なものではない。ありふれたものです。一歩間違えば、ドロドロした愛憎劇−午後1時台のTVドラマ風−になるところを、成瀬は感情を抑えた演技をさせることにより次元の高い人間ドラマに作り上げた。


ネット上には、いろいろなこの作品に対する批評・感想がある。
舅・信吾と嫁・菊子の関係が、中心であることは認めた上で、ボクは以下のようなことを感じた。

夫が信頼できずに堕胎、離婚する女、不倫相手の子を身ごもり一人で生み育てようとする女、ダメ夫に苦しめながら離れられない女、といった三者三様の女を描くことで何かを投げかけているのか。

深読みでしょうか? tougyouさん、beatleさん、ringoさん、ご意見をお聞かせください。(さりげなくコメントを強要<笑>)


成瀬作品は、なんとなく観れば、なんとなくの感想しかもてないが、よく観るといろいろと語りかけて来ますね。こりゃ、はまるなあ〜(^_^)v   また、他の作品も観ます。


また、本作は、原作が完成する前に撮影され、そのため原作とは結末が違うそうだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/yamano.html