『キューポラのある街』'62 浦山桐郎/監督 早船ちよ/原作  今村昌平&浦山桐郎/脚色

キューポラのある街 [DVD]


先日、山田洋次監督の初期作品『下町の太陽』(倍賞千恵子・主演)を鑑賞。
同時期の作品として、似たテーマを取り扱っている吉永小百合・主演『キューポラのある街』を観る。
こちらの作品は、埼玉県川口市が舞台。
東京オリンピック以前のまだ貧しさを色濃く残していた時代の映画だ。


小津安二郎の作品にばかり馴染んでいると、このような社会が当時の日本に存在したことを忘れてしまう。
小津的世界の善悪ではなく、もっと違った日本社会があったことを知って損はない。


映画終盤に、北朝鮮への帰国事業で、在日の親子が駅で見送られるシーンがある。
拉致報道さかんなりし頃、やたら批判的な感じでTVでその場面が見られた。
「坊主にくけりゃ……」の類の批判のやり方で、正直、いい感じはしなかった。


このたび鑑賞してみて、北朝鮮礼賛の印象は受けず。
当時の貧困な生活を忠実に映しているだけ、と思う。
改めて言うまでもないが、批判されるべきは北朝鮮政府と事情を隠蔽していた朝鮮総連幹部だろう。


イデオロギーや思想の内容に関わりなく、独裁的な権力を持つと内部から腐っていくのは、世の東西を問わないだろう。


さて、<あらすじ>は以下の通り。

鋳物の町として有名な埼玉県川口市。銑鉄溶解炉キューポラやこしきが林立するこの町は、昔から鉄と火と汗に汚れた鋳物職人の町である。石黒辰五郎も、昔怪我をした足をひきずりながらも、職人気質一途にこしきを守って来た炭たきである。この辰五郎のつとめている松永工場には五、六人の職工しかおらず、それも今年二十歳の塚本克巳を除いては中老の職工ばかり、それだけにこの工場が丸三という大工場に買収され、そのためクビになった辰五郎ほかの職工は翌日から路頭に迷うより仕方なかった。
辰五郎の家は妻トミ、長女ジュン、長男タカユキ、次男テツハルの五人家族。路地裏の長屋に住んでいた。辰五郎がクビになった夜、トミはとある小病院の一室で男児を生んだが辰五郎はやけ酒を飲み歩いて病院へは顔も出さなかった。その後、退職の涙金も出ず辰五郎の家は苦しくなった。


そしてささいなことでタカユキが家をとびだすような大さわぎがおこった。タカユキはサンキチのところへ逃げ込んだ。サンキチの父親が朝鮮人だというので辰五郎はタカユキがサンキチとつきあうのを喜ばなかった。そのうえ克巳が辰五郎の退職金のことでかけあって来ると、「職人がアカの世話になっちゃあ」といって皆を唖然とさせた。


タカユキが鳩のヒナのことで開田組のチンピラにインネンをつけられたことを知ったジュンは、敢然とチンピラの本拠へ乗り込んでタカユキを救った。貧しいながらこの姉弟の心のなかには暖かしい未来の灯があかあかとともっていた。
やっとジュンの親友ノブコの父の会社に仕事がみつかった辰五郎も、新しい技術についてゆけずやめてしまいジュンを悲しませた。街をさまよったジュンは、トミが町角の飲み屋で男たちと嬌声をあげるのを見てしまった。不良の級友リスにバーにつれていかれ睡眠薬をのまされてしまったジュンは、危機一髪のところで克巳が誘導した刑事に助けられた。


学校に行かなくなったジュンを野田先生の温情がつれもどした。やがて石黒家にも春がめぐって来た。克巳の会社が大拡張され、克巳の世話で辰五郎もその工場に行くこととなった。ジュンも昼間働きながら夜間高校に行くようになった。克巳もこの一家の喜びがわがことのように思えてならなかった。石黒家は久し振りの笑い声でいっぱいだった。
キューポラのある街(1962) - goo 映画

東野英治郎は、戦後から配給会社に関わりなく、スクリーンによく登場する。
小津や黒澤の作品だけでなく、山田洋次の作品にも。


ボクはTV「水戸黄門」のイメージが強かったが、様々な出演作を観るにつけこの役者の懐の深さを感じる。
本作でも、無知で教養もなく、その日暮らしの職人気質。そんな父親を熱演。
吉永小百合の健気さひたむきをよく引き立てている。


この映画を左翼がかった古臭い作品とするのは的はずれなのでは。
50代以上の者は、このような貧困な家庭があったことを思い出すべきだし、40代以下の者は、現実に中国や北朝鮮にある貧困が、半世紀足らず前には日本にも存在していたことを覚えておくべきだ。


どんな思想や信条で生きようとも、人間というのは、社会や歴史から独立して存在し得ないからだ。
個人的には、忘れかけていた小学校入学前後の世相を教えてくれる良い作品だ。
当然、退屈せずに全編見られたし、娯楽作品としても色あせていない、と感じた次第だ。