『鬼婆』'64 新藤兼人/監督&脚本 

鬼婆 [DVD]
出演:乙羽信子、吉村実子、佐藤慶殿山泰司


以前から気にかかっていた作品。昨年、TV番組のインタビューで新藤兼人は、「(映画で
描くのは)人間の生と性」だと言っていた。その言葉がぴたりとはまる作品である。

<あらすじ>
時は南北朝、戦乱にふみにじられた民衆は飢え、都は荒廃し民は流亡した。芒ケ源に鬼女が住むと噂されたのもその頃である。芒ケ原に二人の女が棲んでいた。中年の女と、その息子の嫁は、芒ケ原に流れてくる落武者を殺し、武具類を奪っては武器商人の牛に売って生活を支えていた。
それは戦争に男手をとられた彼女たちの唯一の生活手段であった。


或る夜、若い男・八が戦場から帰り、中年の女の息子が死んだと告げた。この話は二人の女にとって打撃であった。若い女は、今迄耐えていたものを、八の小屋で逢びきを重ねてまぎらわした。中年の女は、働き手を奪われる怖れと、嫉妬から、嫁をひきとめようとしたが効き目がなかった。


ある夜、芒ケ原に六尺豊かな敗将が迷い込んだ。鬼の面をつけた敗将に道案内をこわれた中年女は、敗将を芒ケ原の大穴に突き落してその鬼面を奪った。芒ケ原に鬼が出没し始めた。
若い女は恐怖にかられたが、八に逢いたいばかりに芒ケ原をひた走った。八に逢った女は小屋に戻って土間にうずくまる異様なものに気づいた。見れば鬼である。


仰天する女に、「この面をはがしてくれ!」と哀願する声は、義母の声だ。鬼の正体は義母だったのだ。夜毎芒ケ源でおびやかされた恨みに勝ちほこる若い女は、男と会うことを許すという条件で、鬼面をはがしにかかった。しかし、面はぴたりと顔についてビクともせず、中年の女は悲鳴を上げた。木槌をとって面をたたく若い女の手の下を、血が流れていった。ようやくはがした面の下から、義母の顔が鬼の顔となって現われた。若い女は顔を見るなり義母の手を振りきると、狂気のように逃げていった。とれたとれた!と喜こぶ義母は、わけもわからず若い女のあとを追った。
血のしたたる中年女は鬼婆となって芒ケ原を横ぎっていった。
鬼婆(1964) - goo 映画


馬場あき子『おんなの鬼』によれば

表現としての鬼と女とは、最も遠い対極でありながら、内面的な働きという一つの円環の中では、思いがけぬ近さの背中合わせの距離になっていて、極から極への異質な遠さは、実は一瞬の飛躍によってたちまち変質のとげられる表と裏の関係であったりするのだ。

となる。このように、まさに「鬼」とは地獄にいるものでも、どこかの島に住んでいるのでもなく、人間が「心」に宿しているものなのだ、と感じる。


息子の死を悲しむものの、残された嫁に捨てられては生きていけぬ。それ故に、嫁を縛りつけようとする。その鬼気迫る様は、まさに「鬼」そのものだ。だが、それは「生」と「性」の欲の裏返しでもあるのだ。


食欲・性欲を含む全ての「欲」とどのように向き合っていくのか。ある意味、世界宗教と呼ばれるものは、このことと無縁ではなかろう。


個人的な体験であるが、若い頃、某巨大宗教団体の一員として活動した時期がある。
仏教系の団体であるから、「因果応報」や「宿業」とかいったことをよく言われた。
我見や個人の「欲望」に支配されて生きることの過ちも教えられた。


組織が大きくなればなるほど、網の目のように組織が構築されていく。それは理解できる。
加えて、未完成な人間の集団だから、いくら信仰を持っていたにしても個々人に欠点のあることは致し方ない。


しかし、幹部の権威をかさに着て「いばりちらす」のにはどうにも閉口。
ボクのする、組織にとって「都合の悪い質問」には黙殺。挙句の果てに「問題人物」としてマークされる!


さらにさらに、その最高指導者の御仁の「私生活」や裏でやっていた「違法行為」に……。
信仰のかけらもない大幹部や最高指導者に嫌気がさした。(末端には純真かつ善良な人が多いのですけど……)
ということで、ドロップ・アウトと相成る。(それでも、仏教自体には今でも関心有り)


まあそんな若い頃の経験を踏まえて、「欲」というものから逃れることは、いかに困難なものかを考えさせてくれる作品であった。