『わが青春に悔なし』'46  黒澤明/監督

わが青春に悔なし [DVD]


本作は、京大・滝川事件とゾルゲ事件をモデルにして、「生きる」ことを問うた、やや青臭いながらも、戦前に押さえつけられていたエネルギーが、発散されたような印象を受ける。
本編には、直接関係ないが、小津作品に出演する以前の原節子を見ることができる。若くきれいで、強く逞しい女性を演じてます。

<あらすじ>
目のさめるような若葉の京都吉田山。野毛、糸川達大学生七人組とその師八木原教授とその奥さん、そして一人娘の幸枝などにとって今日は楽しいピクニックであったのだが、折からの陸軍演習の機銃音にその自由の夢も奪い去られた。
時、昭和八年、満州事変を契機に軍閥の帝國主義的侵略の野望強行のため、この自由学園京都帝国大学も、ファッショの強圧に敗れなければならなかった。八木原教授は象牙の塔を追放され、常識家の糸川は残留、野毛は大学を去って左翼運動へいつしか踏み込んでいた。幸枝は、秀才型で社交家の糸川より、熱烈な行動派の野毛に対して何かギラギラ眼の眩むような生活があるような気がしていたのであったが、刑を終えて出獄した野毛の転向ぶりには落胆せざるを得ない彼女だった。
昭和十六年、学園を追われた八木原は今では民間無料法律事務所を開設していた。幸枝は東京に自活の道を求めて上京したが、計らずも今は検事となった糸川に逢い、野毛の出京していることを知らされた。野毛は中国研究に名を借りて反戦運動に没頭していた。自己の信念に悔いなしと改めて野毛に面会した幸枝はお互いに信じ合う仲となり楽しかるべき同棲も束の間、野毛は国際スパイの汚名のもと検挙された。幸枝も毒いちごと称する特高警察のあらゆる屈辱に堪え愛人野毛のために戦った。ある日、上京した八木原は野毛のために弁護人に立つことを請願したが野毛事件の担任検事糸川の口より野毛の獄死したことをもたらされ愕然とする。野毛は未決にあるうちスパイの汚名のもとに病死したのだ。
この嘆きを包みかくして幸枝は良人亡きあと田舎で百姓をしている野毛の両親の下に走った。そこで目撃したものは何か?「スパイの家」と村民の罵倒と、迫害のなかに蹶つ気力もなく呻吟している野毛両親一家であった。それでも彼女は戦った。雨の日も大風の日も老母と共に野良に出て馴れぬ鍬を握った。が、無法な村の人は彼女等が折角植え終わった苗をむしり撤いた。それでも彼女は全身を只一つ野毛に対する誠のため打ち続けた。そして彼女は野毛の墓参りに尋ねに来た糸川を追い返す強さの女となっていた。
そして、自由甦る日、昭和二十年の終戦となった。八木原教授は京大拍手のうちに、再び自由の学園に復帰した。この喜びに京都へ帰って来た幸枝は、父に、母に理解を求め地に足のついた野毛の農村へ未来を求めて再び去って行く。思い出の吉田山を通り過ぎた。野毛の真価も一般に認められて来た。現在、幸枝は数々の思い出を顧みつ我が青春に悔いなしと叫びたい気持ちでいつまでも思い出の吉田山に佇んでいた。
わが青春に悔なし(1946) - goo 映画

この映画の見所は、野毛の死後、野毛の妻として「国賊」とか「スパイ」とか言われながらも、歯を食いしばって頑張る原節子の演技にあるだろう。
特に、野毛の実家で母親(杉村春子)とともに野良仕事をしていくうちに、街のお嬢さんの顔から、芯のある大人の女性の顔に変わっていく様は見物。
そこには、小津や成瀬の作品とは違う原節子がいます。


憲法(=日本国憲法)施行前ではありますが、農地改革・婦人参政権といった時代の新しい息吹を感じる作品です。ただそれは、単に与えられた自由ではなく、野毛のような治安維持法の犠牲者があってのこと、というメッセージを感じました。
この点に異議を唱える人はいるかもしれません。ボクも全面的に賛成というわけではありません。
ただ、歴史はあらゆる意味で連続性の側面があるとボクは考えているので、アメリカに押しつけられた「戦後民主主義」は戦前とは断絶していると考えるのには、反対です。まだ、勉強不足なので偉そうなことは言えませんが、一部の保守層が言う「日本国憲法」=「押しつけ憲法」とする説は、一方的な見解と思います。


どうでもいいことですけど、ピクニックで行く吉田山は、京大の東側にある「丘」のような山です。映画の「吉田山」は景色がひらけてなおかつ頂上から京大が見えるのであれば、比叡山かもしくは大文字山か。吉田山から京大はあんな風には見えません。
一体、どこでロケしたのでしょうかね。