風に吹かれて、ぶらぶら散策

9月に入り急に風が秋めいてきた。残暑は厳しいが、先週までのような暑さではないので自転車にて 本日は「妙心寺」を第一の目的地に。

妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花園法皇、開山(初代住職)は関山慧玄(かんざんえげん、無相大師)である。日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭寺院(たっちゅうじいん、子院)が建ち並び、一大寺院群を形成している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新藤兼人『愛妻記』によると妙心寺塔頭衡梅院に乙羽信子の墓があるとのこと。


午前中は、連れ合いとYouTubeで'80年代ロックの動画を見ていて、あっという間に2時間が過ぎてしまった。
あわてて外出。
まずは、北大路通りを西に。烏丸通りを南下している最中、空腹に。
昼食は鞍馬口通りを下がった西側にある「ドンブリドン」で初めて「味噌カツ丼」を食べる。
感想は、こちら


途中、中の迷路のような道を適当に西に。そしたら何と「妙顕寺」前に。ここには「尾形光琳」の墓がある。

妙顕寺(みょうけんじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗大本山山号は具足山。
【歴史】
元亨元年(1321年)に日像(1269 - 1342)が後醍醐天皇より寺領を賜り、京都における日蓮宗最初の道場として御溝傍今小路(京都市上京区)に妙顕寺を建立した。建武元年(1334年)には後醍醐天皇より綸旨を得て勅願寺となる。2世妙実の時、暦応4年(1341年)に四条櫛笥(現京都市中京区)に移転。さらに明徳4年(1393年)には三条坊門堀川(現中京区堀川御池)に移転し妙本寺と改称するが、永正16年(1519年)には元の寺名に戻っている。

日蓮宗の洛中二十一本山の中心として栄えるが、天文5年(1536年)に天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。帰洛を許されるのは天文11年(1542年)で、二条西洞院に再建した。天正11年(1583年)に豊臣秀吉の命により、現在の地に移転する。

天明8年(1788年)には天明の大火により焼失するがその後再建された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この寺の開祖、日像上人は興味深い人だ。日蓮が亡くなったとき(1282年)は、まだ13歳。日蓮は彼に京都布教を付託したというが、六老僧を始め直弟子がいるのに、わざわざ孫弟子に日本の中心地の布教を託すのにはどんな理由があったのか。あるいは、後世に考え出されたものなのか?
またの機会に、この人物と都の布教について調べてみたい。



妙顕寺を後にして、堀川今出川に出て、そこを南下。堀川の商店街を通過して下長者町通りを西に。



玉葱5ケ\100に一瞬、財布がゆるむ(笑)

ここからはいつものことだが、適当に西に西に。10分ほどで目的地の「妙心寺」に到着。寺内は静寂。残暑厳しい中、時折吹く風が心地よい。
どうにかこうにか、衡梅院前に到着。しかし、うーむ、どうも入れません。いわゆる観光寺でないので、一般的な公開はしてないようです。
ということで、門前のみを撮影。

このまま帰宅するのは、つまらないので、妙心寺から南下して西院方面に。ボクが京都に来た最初の2年間住んでいたところです。
このあたりも開発が進み、昔あったお店が随分変わっています。とりあえず最初に住んだ借家に。
ありました。あのボロ借家がまだありました。'80年当時で家賃が\15000くらいだったかと、記憶してます。



↑2階で京都生活を開始


帰りは、坊城通りを上がる。新撰組ゆかりのお寺・壬生寺の横を通り、適当に北上して三条商店街に出る。



途中、「水野」でキムチを購入。御池通りを東に。鴨川まで行き、そこから川沿いを北上。汗をびっしりかいて自宅に到着。久々に、自転車に乗った、と実感。