「下妻物語」嶽本野ばら

下妻物語

原作と映画が、違うのは当たり前のことだが、往々にしてどちらか一方に思い入れがあると、他方に対して失望感を懐くものだ。しかし、両者が『下妻物語』というタイトルであっても、それそれが独立した作品となっている。
小説の作法に則った原作を、映画の文法で制作したことにその成功の因があるのではないだろうか?
 
小説は、桃子の語りを中心に「桃子とイチゴ」のやりとりがメインにおかれている。映画同様、女子高生の友情物語ではある。しかし、それだけにとどまらない面白さがある。まず、語り口調が、何ともいえず面白い。口調によって桃子の性格を浮かび上がらせている点が、何とも心憎いではないか。加えて、イチゴの馬鹿っぷりも見事である。
「地獄で悪魔」は最高!
 
ところで、作者は「下妻」とは何の縁もゆかりもないのだろうか?何故「下妻」なのか?田舎町ならいくらでもあるのに…。

ボクなりに想像をしてみると、次のようになる。

下妻はロケーション的には「陸の孤島」の性格を持つ。しかし実際、自動車があればバイパスも通っているので、都心にでることはそんなに不便ではない。(よって下妻市民は自動車派が多数)
一方、公共の交通機関はきわめて貧弱だ。あの常総線だけ。それも取手〜水海道間は複線であるが、その先−当然、下妻も−は単線。自動車の運転ができなければ、都心までの道のりは遠い。
  
以前、「祖父危篤」の知らせを受け、急ぎ京都から下妻に向かった。自宅→京都駅→東京駅に要した時間と、東京駅から下妻までが、ほぼ同じだった。(やれやれ)つまり、高校生にしてみれば独力で都心にでることは、かなりの時間とエネルギーを要するのだ。この点が「下妻」を舞台に選んだ理由なのでは。

ストーリー展開や山場の部分、また脇役の位置づけが、原作と映画では違う。こんな時いつも、どちらか−たいてい映画の方−に失望するのであるが、例外もある。まさにこの作品はそれに当たる。

表面的には面白おかしくしてあるが、その語っている内容はなかなか硬派だ。一見軟派に見せながらも、軟派を貫くのには硬派の精神が必要ということか?
桃子の軟派な自立心!気に入ってま〜す。