『神々の深き欲望』'68  今村昌平/ 監督 長谷部慶次&今村昌平/脚本

今村昌平『映画は狂気の旅である』


キネマ旬報第1位、キネマ旬報日本映画監督賞、映画芸術第1位、映画評論第1位、芸術選奨文部大臣賞、毎日映画コンクール日本映画大賞+脚本賞+男優助演賞<嵐寛寿郎>)


今村昌平『映画は狂気の旅である−私の履歴書−』(日本経済新聞社)を読んでいる最中から、この監督の映画を無性に観たくなる。

<あらすじ>
今日もまた大樹の下で、いざりの里徳里(浜村純)が蛇皮線を弾きながら、クラゲ島の剣世記を語っていた。この島は、今から二十余年前、四昼夜にわたる暴風に襲われ津波にみまわれた。
台風一過、島人たちは、根吉(三國連太郎)の作っている神田に真赤な巨岩が屹立しているのを発見した。神への畏敬と深い信仰を持つ島人たちは、この凶事の原因を詮議した。そして、兵隊から帰った根吉の乱行が、神の怒りに触れたということになった。
根吉と彼の妹ウマ(松井康子)の関係が怪しいとの噂が流布した。区長の竜立元(加藤嘉)は、根吉を鎖でつなぎ、穴を掘って巨岩の始末をするよう命じた。
その日からウマは竜の囲い者になり、根吉の息子亀太郎(河原崎長一郎)は若者たちから疎外された。


そんなおり、東京から製糖会社の技師刈谷北村和夫)が、水利工事の下調査に訪れた。文明に憧れる亀太郎は、叔母のウマから製糖工場長をつとめる亀に頼んでもらい、刈谷の助手になった。二人は島の隅々まで、水源の調査をしたが、随所で島人たちの妨害を受けて、水源発見への情熱を喪失していった。刈谷は、ある日亀太郎の妹で白痴娘のトリ子(沖山秀子)を抱いた。トリ子の魅力に懇かれた刈谷は、根吉の穴掘りを手伝い、クラゲ島に骨を埋めようと、決意するのだった。


だが、会社からの帰京命令と竜の説得で島を去った。一方、根吉は、穴を掘り続け、巨岩を埋め終る日も間近にせまっていた。ところが、そこへ竜が現われ、仕事の中止を命じた。根吉は、二十余年もうち込んできた仕事を徒労にしたくなかった。根吉は頑として竜の立退き命令をきき入れなかった。


豊年祈祷の祭りの夜、竜はウマを抱いたまま死んだ。そのあとで、根吉は、妹ウマを連れて島を脱出した。小舟の中で二人は抱きあったが、島から逃れることはできなかった。亀太郎を含めた青年たちに、根吉は殴り殺され、海中の鮫に喰いちぎられた。ウマは帆柱に縛られたまま、いずことも知れず消えていった。


五年後、クラゲ島は観光客で賑っていた。亀太郎は一度東京へ行ったが、いつの間にか島に戻り、今は蒸気機関車の運転手をしている。そしてトリ子は岩に化身して刈谷を待ち焦がれているという。里徳里が今日もまたクラゲ島の創世記を観光客に蛇皮線で弾き語っていた。
神々の深き欲望(1968) - goo 映画

「映画の出来はシナリオ六分、配役三分、演出一分」(上掲書p.182)という信条の監督なので、シナリオに最も時間をかけているそうだ。今村昌平は、映画よりも戯曲を書くことに熱心だったという。先の言葉も、彼の原点を知れば、なるほどと納得できる。
師匠の小津安二郎も脚本を書いていた。小津の演出は、割合がもっと高くなるような気がする。


この当時、新人だった沖山秀子は、順調だったらかなりの大物女優になれたのになあ。今でも、映画に出たりジャズ・ライブやったりと、独自の活躍はしているようですが…。
いきなり大役に抜擢されたのが不思議ではない存在感がある。これが、映画の中では有効に作用するのだろう。
今村の言う「配役三分」は、決して軽いものではないと理解できる。

三國連太郎嵐寛寿郎河原崎長一郎北村和夫加藤嘉もいいのだが、沖山秀子の演技というより存在感が第一に印象づけられる。


その意味では、柳田国男民俗学を上手く取り込んだ作品と言えるだろう。
長い映画−174分−だったけど、不思議な思いで一回目を観る。そして、翌日改めて鑑賞。腑に落ちるところが多くなる。
弟子でありながら小津作品の気品や形式美とは全く逆で、似ても似つかない。
彼は、人間の「聖」と「濁」の情念を描くことで、日本や日本人を描こうとしているようだ。


アホの一つ覚えみたいに伝統というと「皇室」や「武士道」を持ち出してくる連中とは、一線を画した骨太の映画だ。再び脚光を浴びても良いのではないかと思った。

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<追記>
tougyouさんが以前ブログに今村作品をご紹介されているのを忘れてました。こちらのほうもご覧下さい。