『濹東綺譚』(新潮文庫)永井荷風

ぼく東綺譚 (新潮文庫)
3月の上京中に読了したもの。感想が遅れたが、今ここに揚げておく。

本書を読むきっかけは、この作品を新藤兼人が映画化したものを鑑賞したからである。
荷風役を演じた津川雅彦が素晴らしかったので、原作にも興味を抱き、読んだ次第。


率直に言うと、小説と映画は別物である。
玉の井の娼婦お雪との関係は、映画のそれと比較すると小説では淡々としたものである。


荷風の交友関係を記した部分もあるにはある。
が、作品のより重要な処は江戸の残り香を求めて東京を散策する荷風の姿というか、佇まいにあるように、
個人的には感じる。


昭和初期の東京下町は、若き日の池波正太郎が闊歩した地域でもある。10代の若者と名を成した文士では、同じ地域を歩いていても、行く先が違うようで、池波の描く戦前の東京とはまた違った、新鮮な東京を感じることができた。


読めば読むほど、荷風という人は粋人ではあるが、奇人の側面もあると思った。
名家の出身でありながら、敢えてその出自を避けるかのような生き方をした文士である。
行間からその教養が垣間見えるが、決してひけらかすこともない。

また、昭和の世相について、明治人と大正人を比較して以下のように述べている。

「然し今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけには行かない。何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫も、何があろうとさほど眉を顰めるにも及ばないでしょう。精力の発展と云ったのは慾望を追求する熱情という意味なんです。スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬其他博奕の流行、みんな慾望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている──その心持ちです。優越を感じたいと思っている慾望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持ちがない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。」(pp.102-103)

こんな記述を読むと、以下のようなことを思ってしまう。


戦後の日本人はダメで、それに比べて戦前の日本人は立派で……などと主張する連中がいかに浅薄な論理の組み立て方をしていることよと。


荷風の目に見えた戦前の昭和は、平成の現代社会と何か似ているような気がしないでもない。