『田中希代子―夜明けのピアニスト―』(ショパン¥1575)荻谷由喜子

田中希代子―夜明けのピアニスト

田中希代子、正直に告白すると、初めて耳にしたピアニストでした。
彼女の師匠・安川加壽子は知っていたし、彼女の弟子・田部京子のアルバムは所有しているし、彼女が好きだったピアニストのクララ・ハスキルはボクも昔から好きで、何枚もアルバムを所有している。
特に、ハスキルの弾くベートーヴェンテンペスト」と「ピアノ協奏曲第3番」は、高校時代からの愛聴盤である。


なのに不覚にもその存在を知らなかったとは……。
先日のブログ記事でshiroppさんからいただいたコメントが、切っ掛けとなり「田中希代子」を知り、彼女の評伝を図書館から借り出して読了した。


今でこそ、クラシックの世界では、国際的に活躍する日本人演奏家は珍しくない。
むしろ、国際コンクールにおいて日本人の入賞者がいないほうが稀なのではなかろうか?
そんなクラシック界のピアニストで、中村紘子内田光子に先行する存在。それが、「田中希代子」である。
彼女は、1955年、第5回ショパンコンクールで10位入賞をはたし、国際舞台で活躍する日本人ピアニストの草分け的存在の一人であった。


1950年18歳で単身、フランスに渡るも、一旦は結核で療養の身となる。しかし、快復後は'52年ジュネーブ国際コンクールで1位空席の2位をイングリット・ヘブラーと分け合う。翌'53年ロン・ティボー国際コンクール第4位。そして、上記の通り'55年に第5回ショパンコンクール10位入賞、となる。


このときのショパ・コンの1位がハラシェヴィチ、2位がアシュケナージなのだからレベルの高さが伺える。
本書によれば

実際は第一位のハラシェヴィチから希代子までの上位十人はわずかな点差でほぼ横並びに等しい状態で、第一位と第二位のポイント差はわずか0.1にすぎず、第一位と第十位とのあいだも、7.6ポイントしか開いていなかったという。(p.186)

ヨーロッパのマスコミは、彼女を「東洋の奇跡」とか「東洋の天才少女」と賞賛したそうだ。


もしかして、この女性は『のだめカンタービレ』の音大理事長のモデルだったのかも、という思いもよぎった(笑)


その後、ヨーロッパと日本を中心に演奏活動を続けたが、絶頂期の30代半ばで膠原病に冒され、引退を余儀なくされた。
'70年代以降、'96年亡くなるまでは、ピアノの指導者として、多くのピアニストを養成した。


不治の病(膠原病)に倒れ、絶頂期に演奏活動から引退せざる得なかった点は、チェリストのデュ・プレと共通するところである。


本書巻末に記されている「田中希代子関係年譜」は、日本のクラシック音楽関係―特に、ピアニスト―の女性演奏家を知る一助となる。また、「田中希代子ディスコグラフィー」は、彼女の演奏を聴いてみたい人に参考になる。ただし、現在では、入手困難なものもあるので購入の際は、ネットで要チェック、である。


このような不世出のピアニストの存在を教えてくれたshiroppさんに改めて感謝いたします。
ありがとうございました。


↓このアルバムは貴重なので、購入したい

田中希代子~東洋の奇蹟~

田中希代子~東洋の奇蹟~